主張・思想の最近のブログ記事

身も蓋もないことを書くのでご注意を。いや、酔っぱらっているのでね。本音を書いてもいいかと思ってね。だれも俺のこと知らねえだろうしさ、こんなもん、反社会的な屑野郎の戯言だとみんな流してくれるはずさ。

CSRって糞だと思う。ついでにダイバーシティって言葉も糞だめからわき上がってきたゴミよりも価値の低い言葉だと思う。

まずCSRについて。CSRって言ったっていろいろあるが、俺が言いたいのは「環境への取り組み」のことだ。

リサイクルやってる企業が言うならいい。最低なのは、化石燃料をベースとしたエネルギー関係の企業とIT企業だ。こいつらは環境に悪いもんを商売にしているくせに「クリーンな地球を」とか「サステイナビリティが云々感ぬん」とかのたまう。馬鹿だよな、ぜったいに。できもしないCO2削減目標をかかげ、ゴミの分別をきちんとしろとか言って細かくゴミを分けさせたり、環境配慮を歌いオフィスのクーラーを高い温度に設定して生産性を低下させる。何も分かってねえ。そんなことで問題が解決するんだったらとっくに解決してますがな。っていうか、環境への配慮とかいらねえし。汚せばいいじゃん。俺らの親の世代はばんばん排気ガス放出したり水銀垂れ流したりしてたんだから、いいじゃん、それで。いやまぁ重金属とかNoxは自分が病気になるかもしれないから、やっぱりやめて欲しいのだが・・・。でもさ、ほんと思うのは、プラスチックをリサイクルするのにどんだけCO2排出してるか知ってるのかってことだよな。馬鹿じゃねえの。

今は日本は大変な時機だ。原発が使えないから節電しなきゃならん。ばんばんCO2排出しろ!火力発電所増やせ!まぁ、放射線でDNA傷つけられてぼろぼろになるのと、局地の氷が溶けてほとんど海になった地球で暮らすのとどっちがいいですか?って問題なんだよ、これは。

次にダイバーシティだよ。こんなもん糞だね。まぁ確かに、日本では人工が減ってるので、労働力をどうやって確保するかという問題はあるが、そんなもん外国に投げればいいだろうに。インドにオフショアしたり、中国IPやってる時点でもう達成されてる。マネジャーだけ日本人で、後はインド人が仕事すりゃいいだろう。本部は日本にあるとしてもね。

そりゃさ、ダイバーシティの考え方がなければ、子育てしながら働くとか障害者が働くって発想はなかっただろうね。でも、ダイバーシティがあるからこそ企業の経営環境は以前に増して厳しくなったのではないかと思う。もちろん「一つの要因に過ぎない」のだが。

だって考えてみてよ。「子供が熱出したから早く帰ります」とか言われてプロジェクトの進捗が悪くなったら、利益に関わる。会社からすれば糞だ。利益を上げろっつうんだよ。障害者だって同じ。普通の人が1人日でできる仕事を、障害者がいるから1.5人日かかりますとか、客から言わせたら「障害者なんてやめて1人日でやれよ」って思うに決まってる。

でもさ~。いや、さんざん書いてきたけどね。なんか、つらい。さんざん糞だと思うけど、俺だってその糞の一員なんだ。うちの主任だって・・・。

子供を育てながらも主任に出世した人も、障害者としてできることは何か探させられている俺も、会社からすれば「体裁を整えるためのツール」なのかもしれない。っていうか、会社員は会社の駒だっていうことは、とっても一般的な話なんだけど、やっぱり社員一人一人という次元で考えたら人間なんだよ。こういう矛盾が摂理ということは理解できても、受け入れられないよ。

なんかね、この前内輪の飲み会で、主任が酔っぱらって泣きながら同僚に何か言ってるのを見て、「やっぱり大変だなぁ」と思ったんだ。俺は別の人と「シェルスクリプトはやっぱり書けなきゃだめですよね~」って話をしていたんだが・・・。

もう、CSRとかダイバーシティとかぜんぜん関係なくなってきたが、なんか、こう、壊れたいの。壊して欲しいの。GUIなんて死ねばいい、みんなCUI使えよ!っていうか、ちょっと仕様書に永井文章書いただけでグダグダ言うなボケ!文章読め!図にばっか頼ってると論理的な思考ができなくなるぞ!!見える化とかほんとやめて欲しい。そういう意味では、「BIツールは人もビジネスもだめにする」というコラムを読んだときは感動した。BIツールを売ってる会社の人間が思っちゃだめだろうけどね。残念。

「働いたら負け」ってたまに思うことがあります(笑)。働いても負け、働かなくても負け。結局生きてる限り負けじゃん!!

とまぁ、ニートとか引きこもりとかが題材になると、「こういう思想なんじゃねえの?」的な描かれ方をされるような気がするのですが、漫画とかネット上の場合。それって正しくはないがぜんぜん間違ってるとも思えない。

まず小難しいことをいうと、勤労は少なくとも日本国民なら憲法に定められた義務である。だもんで、日本国民は働かなければならんのだ。ただし、エリア11在住の日本人はたぶん、該当しない。

ただ、勤労っていうと、大多数は会社勤めや接客業を思い浮かべるに違いない。アーティストや芸能人だって、きちんと勤労している。芸能人はともかく、好き勝手やってそうなドレスのデザイナーとか、趣味でやってそうなミュージシャンだって、立派な勤労だろう。デイトレーダーですら、頭を使って金を動かしているんだから、まぁ勤労とは呼べなくもないような気がしないこともない。

そしてもう一つのポイント、ニートが負けだと思ってる「働く」って行為は、会社に就職するってことじゃないか?実は、引きこもってたくさんの同人音楽を世に送り出していたり、動画サイトへシコシコとアップロードを続けるような連中は、そういうことでだったら働く気はあるんじゃないだろうか。

まぁ仮病以外で、きちんと医者に診断もらって、働けないとされている人は別として、ニートは自分の好きなことばかりやってる連中だ。どうせ会社に入ってもなじめないだろうから、そういう連中で集まって、アイデアなり作品なりを売ればいいと思うのだ。すると、結構良質なものが生まれてくるかもしれない。。。こいつらに言わせれば「負け組」と俺たちにうける何かが大量生産されるかもしれない。

いや別に何も言いたいことがあるわけじゃないのだが、あえていうなら、趣味で食ってく気もねえやつは死んだ方がいいと思います。いわゆるまっとうな人間ってのは、やりたくもない仕事をやらされて、できなきゃ首切るぞと脅され、実際に首切られると生活ができなくなる。だからやりたくもない勉強をして、言いたくもない不条理な命令を部下に告げ、従いたくもない不当な命令に下っ端は従って、毎日を生きている。そして、上司の意見をできる人間は、日本企業ではウザがられ、だんだんのけ者にされていく・・・。

こういう社会人的プロセスをへないでも、自分の殻に閉じこもってできたものを売ろうとぐらい思わなきゃ。それもできなきゃ、本当に死ぬぐらいしかその人にはやることがないね。

ときどき、「人間の人権ってのは平等だというのは幻想」だと思う。根底と成る平等の概念についての疑いは前にも書いたと思うが、ひいては人権だって平等なもんか。一生懸命毎日会社勤めしてる人間と、1日中部屋でシコシコしている人間の価値も人権も等しいわけがない。ニートには人権なんていらないと思ってるから、死ぬぐらいしかやることがないと思うわけだが・・・。もちろんニートであるからこそ何でもできるわけで、何かやったことを社会に放出すれば(もちろん売り物で)、人権も少しは高くなると思うが。羽ばたけ!ニートのオタクどもよ!!

あぁくそっ!!ったく世の中にはなんて非常識なやつらがいるのだろう。kまったく腹立たしい。一遍死んでみればいいのだ、そんなやつら。

要するにだ、電車の中でゲロを吐くなということなのだ。大迷惑である。ほんと、そんなやつ Fuck yourself!!

何年か前、新宿駅を歩いているときにエスカレーターの降り口にぶちまけられていたトラップにはまって、スッテンコロリンしたことがあった。そのときの方がむかついて、且つ惨めだったとは思うが、それにしても、あんなおぞましいものを踏んでしまうというのは気分が悪すぎる。せっかく有人と会って楽しく飲んだ帰り、かわいいお姉さんと出会って乗り換えを手伝ってもらい、ルンルン気分で帰路に着いたというのに。最後の最後で全てをぶちこわす卑劣なトラップが仕掛けられていたとは思わなかった。平和なこの日本じゃ、電車にぶちまけられたゲロは、戦場の対人地雷やIEDのような破壊力を持つのである。そう、精神的ダメージにおいて。

そりゃね、俺だって学制のときは無茶して、まぁ、公共の場所にトラップを仕掛ける側だったときもあったさ。反省してるよ。でもね、できるだけ被害が少ないところを選ぶだけの理性を持ってトラップを仕掛けた。そう例えば、講演の隅っことか、人通りの少ない道路脇とか、駅の便所とか・・・。電車の中はいくらなんでもねえよ。そりゃね、GW中ですしね、利用客も多い。まぁ土曜日の朝の電車にはそれらしい痕跡が残っていることだって通常でも多い。しかしだね、普通だからって容認していいもんじゃないだろう。いやまぁ、だいたい吐くほど飲む時点でもうだめなんだが、吐くにしても最低限のマナーをだね・・・。

あぁやってられん。まったく、糞だ、屑だ、かすだ!!FKKだ痕畜生!

英語

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知り合いが一生懸命英語を勉強しているのをみて、俺も英語の勉強した方がいいかなと思ったのである。

世の中知らない間にグローバル化が進んでいて、英語ができなきゃ何も出来ない時代が目の前にあるように感じる。今でさえ英語ができた方がいろいろな場面で圧倒的に有利だというのに、さらに「英語ができなきゃお話にならない」時代がくるのかと思うと憂鬱である。日本企業だって社内の公用語を英語にするところもあるぐらいだから、よっぽどなんだろう。そんな会社になったら俺はやめるね。

とは言うものの時代の流れにはなかなか逆行できないし、そうやって避けていたら飢え死にするかもしれない。実際日本からどんどん仕事がなくなっているし(不景気だからということではなくてルーチンワークがコストの安い途上国へ流出しているということ)。まぁ、もうちょっと大きな意味でとらえると、物作りを売りにしてきた日本がもう物作りじゃ他の国に勝てないときているんだから、根本的に違う業態にシフトしていかなきゃならんというのが本質だと思うのだけれど。結局は英語がいるのだ。仕事変われば言葉変わる、と。

で、俺も何かしようと思ったわけで。できればそんなに金を掛けず、時間も掛けずやりたい。もちろん、そんな虫の良い話はないが、少なくとも金はあんまり掛けたくない。

そこで、前にも少し書いたけれど、スピードラーニングを始めた。「毎日5分聞き流す」という夢のようなうたい文句に惹かれ、月々の費用も4,000円弱だったので、お試し気分でやってみたのである。

結果はというと、半年やったが今市。少なくとも、俺の場合は宣伝されているほどの効果はない。確か1,2ヶ月でふと英単語を口にするようになり、半年から1年で会話ができるようになると書いてあったかな。詳しくは覚えてないけど。とりあえず英単語は前より無駄に口にするようにはなったけれど、何言ってるのかはまだよく分からない。

まぁ、効果が出ないのは俺の使い方にそもそも問題があるのかもしれない。メーカーによれば、使い方のポイントが三つぐらいあったはずだが、俺はたぶん全部満たしていない、ということになるのだろう。ちなみにどんなポイントかというと、

  1. 目的を持って聞いてください。
  2. 毎日聞いてください。
  3. 今までの英語の勉強法を忘れてください。

最初の二つは特に違和感はない。その通りだと思う。最後のやつはこういう理屈らしい。「学校のような詰め込み教育では英語を話せるようにはなりません。ネイティブの人が英語を学んできたように、耳から自然に英語を聞いて理解してください。決してテキストを読みながら聞かないで、耳で聞いて慣れてください。」

前半はまぁそうかなと思うのだが、後半については半分異論がある。リスニングについては確かに耳で慣れる以外どうにもならんと思うけれども、理解できるようになるのが最終的な目標であって、ただ聞いてるだけじゃだめなのではないだろうか。ある程度英文法が分かってないとさっぱりだろうし、英語に独特の表現方法ってのもあるだろう(イディオムとかね)。まぁ、日本語と英語が対になって録音されているバージョンもあるのだが、ほとんど意訳なのでいろいろと疑問も出てくる。つまりは、やっぱり聞くだけじゃだめで、ちゃんと理屈も勉強しなきゃいけないんじゃないの?と言いたいわけだ。

そう思ったのでサポートセンターに聞いてみた。そして答えは「そのように思っていることがだめなんです。」と。そうこられたら、うーん、もう何も言うことはない。ひたすら聞くだけですな。

そんなわけで、とりあえずもうちょっとスピードラーニングは続けてみようと思う。が、いかんせん退屈なのだ。別に会話の内容に興味を引かれるわけでもないし。毎日5分聞き流すだけでいいと言うけれど、その気にだんだんならなくなってくる。もっと英語を聞く気になる方法はないだろうか。

ということで考えた。「アニメで勉強すればいいだろう」と。ちょっと前まで日本のアニメは世界的にブームで、アメリカにも多くの作品が輸出された。で、まぁ技術的な問題はさておいて、北米で出た英語版のアニメDVDを買って、見れば、少なくとも興味はわくだろうと考えたのである。もちろん一度見たことのあるアニメを選ぶ。それなら話の筋は分かるから、なんとなくどんな場面で何を話しているかも創造がつくと思うので。

そして「Black Lagoon」というアニメのDVDを買った。もともと好きだったアニメだし、ボックスが安く売られていたので。ちなみに円高でよかったと今回初めて思いました。

で、実際見てみてどうかだが、少なくとも興味は持てる。もちろん英語で何言ってるかは分からないが。

ただ、英語の勉強以外にもう一つ面白い面がある。英語と日本語の違いについて比べるのが結構面白い。単純に、日本語の台詞を英語に訳すとどうなるかということが分かるだけでなく、台詞の一部がまるっきり変わっていることがあって面白いのだ。

例えば、Black Lagoonでは、日本の暴力団がロシアンマフィアと手を組んで、対立する組に一泡ふかせようとするストーリーがあり、その一部として、ロシア人の英語を通訳しているシーンがある。日本語版では途中でロシア語に変わって通訳できないことになっているのだが、英語版では軍隊用語になって通訳できないことになっていた。その、ロシアンマフィアがソビエト空挺部隊崩れであるという設定とか、日本でロシア人がテロを起こすとか、そういう筋書きが問題になったのかどうかは知らないが、何故そういう風に筋書きが変わるのか疑問に思う。むしろ面白い。英語の勉強より、そのように細かいところを変更しなきゃならん文化の背景が気になる。まぁ単に製作会社の方で苦情がきそうだと判断しただけかもしれんが、それならそれで、なんでロシア人が絡むシーンでちょっとばかり変更が生じるのかは分からない。

そういうわけで、効果があるかどうかはともかく、アニメなりドラマなり、自分になじみのある題材を学習に選ぶ方が、少なくとも積極的に英語を聞く気になることが分かった。

ただし、題材は選んだ方がいい。もっと正確にいうと、ちゃんとしたものを選んだ方がいい。Black Lagoonは面白いアニメなのだが、言葉がね、ちょっと汚いもので・・・。いや俺は素晴らしいと思うのだが、ファッキンとか。一般的にはどうもだめな部類の言葉みたいなのでね。Fucking bitch!とか言っちゃいけないと思うので、基本的にはね。

英語

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知り合いが一生懸命英語を勉強しているのをみて、俺も英語の勉強した方がいいかなと思ったのである。

世の中知らない間にグローバル化が進んでいて、英語ができなきゃ何も出来ない時代が目の前にあるように感じる。今でさえ英語ができた方がいろいろな場面で圧倒的に有利だというのに、さらに「英語ができなきゃお話にならない」時代がくるのかと思うと憂鬱である。日本企業だって社内の公用語を英語にするところもあるぐらいだから、よっぽどなんだろう。そんな会社になったら俺はやめるね。

とは言うものの時代の流れにはなかなか逆行できないし、そうやって避けていたら飢え死にするかもしれない。実際日本からどんどん仕事がなくなっているし(不景気だからということではなくてルーチンワークがコストの安い途上国へ流出しているということ)。まぁ、もうちょっと大きな意味でとらえると、物作りを売りにしてきた日本がもう物作りじゃ他の国に勝てないときているんだから、根本的に違う業態にシフトしていかなきゃならんというのが本質だと思うのだけれど。結局は英語がいるのだ。仕事変われば言葉変わる、と。

で、俺も何かしようと思ったわけで。できればそんなに金を掛けず、時間も掛けずやりたい。もちろん、そんな虫の良い話はないが、少なくとも金はあんまり掛けたくない。

そこで、前にも少し書いたけれど、スピードラーニングを始めた。「毎日5分聞き流す」という夢のようなうたい文句に惹かれ、月々の費用も4,000円弱だったので、お試し気分でやってみたのである。

結果はというと、半年やったが今市。少なくとも、俺の場合は宣伝されているほどの効果はない。確か1,2ヶ月でふと英単語を口にするようになり、半年から1年で会話ができるようになると書いてあったかな。詳しくは覚えてないけど。とりあえず英単語は前より無駄に口にするようにはなったけれど、何言ってるのかはまだよく分からない。

まぁ、効果が出ないのは俺の使い方にそもそも問題があるのかもしれない。メーカーによれば、使い方のポイントが三つぐらいあったはずだが、俺はたぶん全部満たしていない、ということになるのだろう。ちなみにどんなポイントかというと、

  1. 目的を持って聞いてください。
  2. 毎日聞いてください。
  3. 今までの英語の勉強法を忘れてください。

最初の二つは特に違和感はない。その通りだと思う。最後のやつはこういう理屈らしい。「学校のような詰め込み教育では英語を話せるようにはなりません。ネイティブの人が英語を学んできたように、耳から自然に英語を聞いて理解してください。決してテキストを読みながら聞かないで、耳で聞いて慣れてください。」

前半はまぁそうかなと思うのだが、後半については半分異論がある。リスニングについては確かに耳で慣れる以外どうにもならんと思うけれども、理解できるようになるのが最終的な目標であって、ただ聞いてるだけじゃだめなのではないだろうか。ある程度英文法が分かってないとさっぱりだろうし、英語に独特の表現方法ってのもあるだろう(イディオムとかね)。まぁ、日本語と英語が対になって録音されているバージョンもあるのだが、ほとんど意訳なのでいろいろと疑問も出てくる。つまりは、やっぱり聞くだけじゃだめで、ちゃんと理屈も勉強しなきゃいけないんじゃないの?と言いたいわけだ。

そう思ったのでサポートセンターに聞いてみた。そして答えは「そのように思っていることがだめなんです。」と。そうこられたら、うーん、もう何も言うことはない。ひたすら聞くだけですな。

そんなわけで、とりあえずもうちょっとスピードラーニングは続けてみようと思う。が、いかんせん退屈なのだ。別に会話の内容に興味を引かれるわけでもないし。毎日5分聞き流すだけでいいと言うけれど、その気にだんだんならなくなってくる。もっと英語を聞く気になる方法はないだろうか。

ということで考えた。「アニメで勉強すればいいだろう」と。ちょっと前まで日本のアニメは世界的にブームで、アメリカにも多くの作品が輸出された。で、まぁ技術的な問題はさておいて、北米で出た英語版のアニメDVDを買って、見れば、少なくとも興味はわくだろうと考えたのである。もちろん一度見たことのあるアニメを選ぶ。それなら話の筋は分かるから、なんとなくどんな場面で何を話しているかも創造がつくと思うので。

そして「Black Lagoon」というアニメのDVDを買った。もともと好きだったアニメだし、ボックスが安く売られていたので。ちなみに円高でよかったと今回初めて思いました。

で、実際見てみてどうかだが、少なくとも興味は持てる。もちろん英語で何言ってるかは分からないが。

ただ、英語の勉強以外にもう一つ面白い面がある。英語と日本語の違いについて比べるのが結構面白い。単純に、日本語の台詞を英語に訳すとどうなるかということが分かるだけでなく、台詞の一部がまるっきり変わっていることがあって面白いのだ。

例えば、Black Lagoonでは、日本の暴力団がロシアンマフィアと手を組んで、対立する組に一泡ふかせようとするストーリーがあり、その一部として、ロシア人の英語を通訳しているシーンがある。日本語版では途中でロシア語に変わって通訳できないことになっているのだが、英語版では軍隊用語になって通訳できないことになっていた。その、ロシアンマフィアがソビエト空挺部隊崩れであるという設定とか、日本でロシア人がテロを起こすとか、そういう筋書きが問題になったのかどうかは知らないが、何故そういう風に筋書きが変わるのか疑問に思う。むしろ面白い。英語の勉強より、そのように細かいところを変更しなきゃならん文化の背景が気になる。まぁ単に製作会社の方で苦情がきそうだと判断しただけかもしれんが、それならそれで、なんでロシア人が絡むシーンでちょっとばかり変更が生じるのかは分からない。

そういうわけで、効果があるかどうかはともかく、アニメなりドラマなり、自分になじみのある題材を学習に選ぶ方が、少なくとも積極的に英語を聞く気になることが分かった。

ただし、題材は選んだ方がいい。もっと正確にいうと、ちゃんとしたものを選んだ方がいい。Black Lagoonは面白いアニメなのだが、言葉がね、ちょっと汚いもので・・・。いや俺は素晴らしいと思うのだが、ファッキンとか。一般的にはどうもだめな部類の言葉みたいなのでね。Fucking bitch!とか言っちゃいけないと思うので、基本的にはね。

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知り合いが一生懸命英語を勉強しているのをみて、俺も英語の勉強した方がいいかなと思ったのである。

世の中知らない間にグローバル化が進んでいて、英語ができなきゃ何も出来ない時代が目の前にあるように感じる。今でさえ英語ができた方がいろいろな場面で圧倒的に有利だというのに、さらに「英語ができなきゃお話にならない」時代がくるのかと思うと憂鬱である。日本企業だって社内の公用語を英語にするところもあるぐらいだから、よっぽどなんだろう。そんな会社になったら俺はやめるね。

とは言うものの時代の流れにはなかなか逆行できないし、そうやって避けていたら飢え死にするかもしれない。実際日本からどんどん仕事がなくなっているし(不景気だからということではなくてルーチンワークがコストの安い途上国へ流出しているということ)。まぁ、もうちょっと大きな意味でとらえると、物作りを売りにしてきた日本がもう物作りじゃ他の国に勝てないときているんだから、根本的に違う業態にシフトしていかなきゃならんというのが本質だと思うのだけれど。結局は英語がいるのだ。仕事変われば言葉変わる、と。

で、俺も何かしようと思ったわけで。できればそんなに金を掛けず、時間も掛けずやりたい。もちろん、そんな虫の良い話はないが、少なくとも金はあんまり掛けたくない。

そこで、前にも少し書いたけれど、スピードラーニングを始めた。「毎日5分聞き流す」という夢のようなうたい文句に惹かれ、月々の費用も4,000円弱だったので、お試し気分でやってみたのである。

結果はというと、半年やったが今市。少なくとも、俺の場合は宣伝されているほどの効果はない。確か1,2ヶ月でふと英単語を口にするようになり、半年から1年で会話ができるようになると書いてあったかな。詳しくは覚えてないけど。とりあえず英単語は前より無駄に口にするようにはなったけれど、何言ってるのかはまだよく分からない。

まぁ、効果が出ないのは俺の使い方にそもそも問題があるのかもしれない。メーカーによれば、使い方のポイントが三つぐらいあったはずだが、俺はたぶん全部満たしていない、ということになるのだろう。ちなみにどんなポイントかというと、

  1. 目的を持って聞いてください。
  2. 毎日聞いてください。
  3. 今までの英語の勉強法を忘れてください。

最初の二つは特に違和感はない。その通りだと思う。最後のやつはこういう理屈らしい。「学校のような詰め込み教育では英語を話せるようにはなりません。ネイティブの人が英語を学んできたように、耳から自然に英語を聞いて理解してください。決してテキストを読みながら聞かないで、耳で聞いて慣れてください。」

前半はまぁそうかなと思うのだが、後半については半分異論がある。リスニングについては確かに耳で慣れる以外どうにもならんと思うけれども、理解できるようになるのが最終的な目標であって、ただ聞いてるだけじゃだめなのではないだろうか。ある程度英文法が分かってないとさっぱりだろうし、英語に独特の表現方法ってのもあるだろう(イディオムとかね)。まぁ、日本語と英語が対になって録音されているバージョンもあるのだが、ほとんど意訳なのでいろいろと疑問も出てくる。つまりは、やっぱり聞くだけじゃだめで、ちゃんと理屈も勉強しなきゃいけないんじゃないの?と言いたいわけだ。

そう思ったのでサポートセンターに聞いてみた。そして答えは「そのように思っていることがだめなんです。」と。そうこられたら、うーん、もう何も言うことはない。ひたすら聞くだけですな。

そんなわけで、とりあえずもうちょっとスピードラーニングは続けてみようと思う。が、いかんせん退屈なのだ。別に会話の内容に興味を引かれるわけでもないし。毎日5分聞き流すだけでいいと言うけれど、その気にだんだんならなくなってくる。もっと英語を聞く気になる方法はないだろうか。

ということで考えた。「アニメで勉強すればいいだろう」と。ちょっと前まで日本のアニメは世界的にブームで、アメリカにも多くの作品が輸出された。で、まぁ技術的な問題はさておいて、北米で出た英語版のアニメDVDを買って、見れば、少なくとも興味はわくだろうと考えたのである。もちろん一度見たことのあるアニメを選ぶ。それなら話の筋は分かるから、なんとなくどんな場面で何を話しているかも創造がつくと思うので。

そして「Black Lagoon」というアニメのDVDを買った。もともと好きだったアニメだし、ボックスが安く売られていたので。ちなみに円高でよかったと今回初めて思いました。

で、実際見てみてどうかだが、少なくとも興味は持てる。もちろん英語で何言ってるかは分からないが。

ただ、英語の勉強以外にもう一つ面白い面がある。英語と日本語の違いについて比べるのが結構面白い。単純に、日本語の台詞を英語に訳すとどうなるかということが分かるだけでなく、台詞の一部がまるっきり変わっていることがあって面白いのだ。

例えば、Black Lagoonでは、日本の暴力団がロシアンマフィアと手を組んで、対立する組に一泡ふかせようとするストーリーがあり、その一部として、ロシア人の英語を通訳しているシーンがある。日本語版では途中でロシア語に変わって通訳できないことになっているのだが、英語版では軍隊用語になって通訳できないことになっていた。その、ロシアンマフィアがソビエト空挺部隊崩れであるという設定とか、日本でロシア人がテロを起こすとか、そういう筋書きが問題になったのかどうかは知らないが、何故そういう風に筋書きが変わるのか疑問に思う。むしろ面白い。英語の勉強より、そのように細かいところを変更しなきゃならん文化の背景が気になる。まぁ単に製作会社の方で苦情がきそうだと判断しただけかもしれんが、それならそれで、なんでロシア人が絡むシーンでちょっとばかり変更が生じるのかは分からない。

そういうわけで、効果があるかどうかはともかく、アニメなりドラマなり、自分になじみのある題材を学習に選ぶ方が、少なくとも積極的に英語を聞く気になることが分かった。

ただし、題材は選んだ方がいい。もっと正確にいうと、ちゃんとしたものを選んだ方がいい。Black Lagoonは面白いアニメなのだが、言葉がね、ちょっと汚いもので・・・。いや俺は素晴らしいと思うのだが、ファッキンとか。一般的にはどうもだめな部類の言葉みたいなのでね。Fucking bitch!とか言っちゃいけないと思うので、基本的にはね。

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知り合いが一生懸命英語を勉強しているのをみて、俺も英語の勉強した方がいいかなと思ったのである。

世の中知らない間にグローバル化が進んでいて、英語ができなきゃ何も出来ない時代が目の前にあるように感じる。今でさえ英語ができた方がいろいろな場面で圧倒的に有利だというのに、さらに「英語ができなきゃお話にならない」時代がくるのかと思うと憂鬱である。日本企業だって社内の公用語を英語にするところもあるぐらいだから、よっぽどなんだろう。そんな会社になったら俺はやめるね。

とは言うものの時代の流れにはなかなか逆行できないし、そうやって避けていたら飢え死にするかもしれない。実際日本からどんどん仕事がなくなっているし(不景気だからということではなくてルーチンワークがコストの安い途上国へ流出しているということ)。まぁ、もうちょっと大きな意味でとらえると、物作りを売りにしてきた日本がもう物作りじゃ他の国に勝てないときているんだから、根本的に違う業態にシフトしていかなきゃならんというのが本質だと思うのだけれど。結局は英語がいるのだ。仕事変われば言葉変わる、と。

で、俺も何かしようと思ったわけで。できればそんなに金を掛けず、時間も掛けずやりたい。もちろん、そんな虫の良い話はないが、少なくとも金はあんまり掛けたくない。

そこで、前にも少し書いたけれど、スピードラーニングを始めた。「毎日5分聞き流す」という夢のようなうたい文句に惹かれ、月々の費用も4,000円弱だったので、お試し気分でやってみたのである。

結果はというと、半年やったが今市。少なくとも、俺の場合は宣伝されているほどの効果はない。確か1,2ヶ月でふと英単語を口にするようになり、半年から1年で会話ができるようになると書いてあったかな。詳しくは覚えてないけど。とりあえず英単語は前より無駄に口にするようにはなったけれど、何言ってるのかはまだよく分からない。

まぁ、効果が出ないのは俺の使い方にそもそも問題があるのかもしれない。メーカーによれば、使い方のポイントが三つぐらいあったはずだが、俺はたぶん全部満たしていない、ということになるのだろう。ちなみにどんなポイントかというと、

  1. 目的を持って聞いてください。
  2. 毎日聞いてください。
  3. 今までの英語の勉強法を忘れてください。

最初の二つは特に違和感はない。その通りだと思う。最後のやつはこういう理屈らしい。「学校のような詰め込み教育では英語を話せるようにはなりません。ネイティブの人が英語を学んできたように、耳から自然に英語を聞いて理解してください。決してテキストを読みながら聞かないで、耳で聞いて慣れてください。」

前半はまぁそうかなと思うのだが、後半については半分異論がある。リスニングについては確かに耳で慣れる以外どうにもならんと思うけれども、理解できるようになるのが最終的な目標であって、ただ聞いてるだけじゃだめなのではないだろうか。ある程度英文法が分かってないとさっぱりだろうし、英語に独特の表現方法ってのもあるだろう(イディオムとかね)。まぁ、日本語と英語が対になって録音されているバージョンもあるのだが、ほとんど意訳なのでいろいろと疑問も出てくる。つまりは、やっぱり聞くだけじゃだめで、ちゃんと理屈も勉強しなきゃいけないんじゃないの?と言いたいわけだ。

そう思ったのでサポートセンターに聞いてみた。そして答えは「そのように思っていることがだめなんです。」と。そうこられたら、うーん、もう何も言うことはない。ひたすら聞くだけですな。

そんなわけで、とりあえずもうちょっとスピードラーニングは続けてみようと思う。が、いかんせん退屈なのだ。別に会話の内容に興味を引かれるわけでもないし。毎日5分聞き流すだけでいいと言うけれど、その気にだんだんならなくなってくる。もっと英語を聞く気になる方法はないだろうか。

ということで考えた。「アニメで勉強すればいいだろう」と。ちょっと前まで日本のアニメは世界的にブームで、アメリカにも多くの作品が輸出された。で、まぁ技術的な問題はさておいて、北米で出た英語版のアニメDVDを買って、見れば、少なくとも興味はわくだろうと考えたのである。もちろん一度見たことのあるアニメを選ぶ。それなら話の筋は分かるから、なんとなくどんな場面で何を話しているかも創造がつくと思うので。

そして「Black Lagoon」というアニメのDVDを買った。もともと好きだったアニメだし、ボックスが安く売られていたので。ちなみに円高でよかったと今回初めて思いました。

で、実際見てみてどうかだが、少なくとも興味は持てる。もちろん英語で何言ってるかは分からないが。

ただ、英語の勉強以外にもう一つ面白い面がある。英語と日本語の違いについて比べるのが結構面白い。単純に、日本語の台詞を英語に訳すとどうなるかということが分かるだけでなく、台詞の一部がまるっきり変わっていることがあって面白いのだ。

例えば、Black Lagoonでは、日本の暴力団がロシアンマフィアと手を組んで、対立する組に一泡ふかせようとするストーリーがあり、その一部として、ロシア人の英語を通訳しているシーンがある。日本語版では途中でロシア語に変わって通訳できないことになっているのだが、英語版では軍隊用語になって通訳できないことになっていた。その、ロシアンマフィアがソビエト空挺部隊崩れであるという設定とか、日本でロシア人がテロを起こすとか、そういう筋書きが問題になったのかどうかは知らないが、何故そういう風に筋書きが変わるのか疑問に思う。むしろ面白い。英語の勉強より、そのように細かいところを変更しなきゃならん文化の背景が気になる。まぁ単に製作会社の方で苦情がきそうだと判断しただけかもしれんが、それならそれで、なんでロシア人が絡むシーンでちょっとばかり変更が生じるのかは分からない。

そういうわけで、効果があるかどうかはともかく、アニメなりドラマなり、自分になじみのある題材を学習に選ぶ方が、少なくとも積極的に英語を聞く気になることが分かった。

ただし、題材は選んだ方がいい。もっと正確にいうと、ちゃんとしたものを選んだ方がいい。Black Lagoonは面白いアニメなのだが、言葉がね、ちょっと汚いもので・・・。いや俺は素晴らしいと思うのだが、ファッキンとか。一般的にはどうもだめな部類の言葉みたいなのでね。Fucking bitch!とか言っちゃいけないと思うので、基本的にはね。

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知り合いが一生懸命英語を勉強しているのをみて、俺も英語の勉強した方がいいかなと思ったのである。

世の中知らない間にグローバル化が進んでいて、英語ができなきゃ何も出来ない時代が目の前にあるように感じる。今でさえ英語ができた方がいろいろな場面で圧倒的に有利だというのに、さらに「英語ができなきゃお話にならない」時代がくるのかと思うと憂鬱である。日本企業だって社内の公用語を英語にするところもあるぐらいだから、よっぽどなんだろう。そんな会社になったら俺はやめるね。

とは言うものの時代の流れにはなかなか逆行できないし、そうやって避けていたら飢え死にするかもしれない。実際日本からどんどん仕事がなくなっているし(不景気だからということではなくてルーチンワークがコストの安い途上国へ流出しているということ)。まぁ、もうちょっと大きな意味でとらえると、物作りを売りにしてきた日本がもう物作りじゃ他の国に勝てないときているんだから、根本的に違う業態にシフトしていかなきゃならんというのが本質だと思うのだけれど。結局は英語がいるのだ。仕事変われば言葉変わる、と。

で、俺も何かしようと思ったわけで。できればそんなに金を掛けず、時間も掛けずやりたい。もちろん、そんな虫の良い話はないが、少なくとも金はあんまり掛けたくない。

そこで、前にも少し書いたけれど、スピードラーニングを始めた。「毎日5分聞き流す」という夢のようなうたい文句に惹かれ、月々の費用も4,000円弱だったので、お試し気分でやってみたのである。

結果はというと、半年やったが今市。少なくとも、俺の場合は宣伝されているほどの効果はない。確か1,2ヶ月でふと英単語を口にするようになり、半年から1年で会話ができるようになると書いてあったかな。詳しくは覚えてないけど。とりあえず英単語は前より無駄に口にするようにはなったけれど、何言ってるのかはまだよく分からない。

まぁ、効果が出ないのは俺の使い方にそもそも問題があるのかもしれない。メーカーによれば、使い方のポイントが三つぐらいあったはずだが、俺はたぶん全部満たしていない、ということになるのだろう。ちなみにどんなポイントかというと、

  1. 目的を持って聞いてください。
  2. 毎日聞いてください。
  3. 今までの英語の勉強法を忘れてください。

最初の二つは特に違和感はない。その通りだと思う。最後のやつはこういう理屈らしい。「学校のような詰め込み教育では英語を話せるようにはなりません。ネイティブの人が英語を学んできたように、耳から自然に英語を聞いて理解してください。決してテキストを読みながら聞かないで、耳で聞いて慣れてください。」

前半はまぁそうかなと思うのだが、後半については半分異論がある。リスニングについては確かに耳で慣れる以外どうにもならんと思うけれども、理解できるようになるのが最終的な目標であって、ただ聞いてるだけじゃだめなのではないだろうか。ある程度英文法が分かってないとさっぱりだろうし、英語に独特の表現方法ってのもあるだろう(イディオムとかね)。まぁ、日本語と英語が対になって録音されているバージョンもあるのだが、ほとんど意訳なのでいろいろと疑問も出てくる。つまりは、やっぱり聞くだけじゃだめで、ちゃんと理屈も勉強しなきゃいけないんじゃないの?と言いたいわけだ。

そう思ったのでサポートセンターに聞いてみた。そして答えは「そのように思っていることがだめなんです。」と。そうこられたら、うーん、もう何も言うことはない。ひたすら聞くだけですな。

そんなわけで、とりあえずもうちょっとスピードラーニングは続けてみようと思う。が、いかんせん退屈なのだ。別に会話の内容に興味を引かれるわけでもないし。毎日5分聞き流すだけでいいと言うけれど、その気にだんだんならなくなってくる。もっと英語を聞く気になる方法はないだろうか。

ということで考えた。「アニメで勉強すればいいだろう」と。ちょっと前まで日本のアニメは世界的にブームで、アメリカにも多くの作品が輸出された。で、まぁ技術的な問題はさておいて、北米で出た英語版のアニメDVDを買って、見れば、少なくとも興味はわくだろうと考えたのである。もちろん一度見たことのあるアニメを選ぶ。それなら話の筋は分かるから、なんとなくどんな場面で何を話しているかも創造がつくと思うので。

そして「Black Lagoon」というアニメのDVDを買った。もともと好きだったアニメだし、ボックスが安く売られていたので。ちなみに円高でよかったと今回初めて思いました。

で、実際見てみてどうかだが、少なくとも興味は持てる。もちろん英語で何言ってるかは分からないが。

ただ、英語の勉強以外にもう一つ面白い面がある。英語と日本語の違いについて比べるのが結構面白い。単純に、日本語の台詞を英語に訳すとどうなるかということが分かるだけでなく、台詞の一部がまるっきり変わっていることがあって面白いのだ。

例えば、Black Lagoonでは、日本の暴力団がロシアンマフィアと手を組んで、対立する組に一泡ふかせようとするストーリーがあり、その一部として、ロシア人の英語を通訳しているシーンがある。日本語版では途中でロシア語に変わって通訳できないことになっているのだが、英語版では軍隊用語になって通訳できないことになっていた。その、ロシアンマフィアがソビエト空挺部隊崩れであるという設定とか、日本でロシア人がテロを起こすとか、そういう筋書きが問題になったのかどうかは知らないが、何故そういう風に筋書きが変わるのか疑問に思う。むしろ面白い。英語の勉強より、そのように細かいところを変更しなきゃならん文化の背景が気になる。まぁ単に製作会社の方で苦情がきそうだと判断しただけかもしれんが、それならそれで、なんでロシア人が絡むシーンでちょっとばかり変更が生じるのかは分からない。

そういうわけで、効果があるかどうかはともかく、アニメなりドラマなり、自分になじみのある題材を学習に選ぶ方が、少なくとも積極的に英語を聞く気になることが分かった。

ただし、題材は選んだ方がいい。もっと正確にいうと、ちゃんとしたものを選んだ方がいい。Black Lagoonは面白いアニメなのだが、言葉がね、ちょっと汚いもので・・・。いや俺は素晴らしいと思うのだが、ファッキンとか。一般的にはどうもだめな部類の言葉みたいなのでね。Fucking bitch!とか言っちゃいけないと思うので、基本的にはね。

最近ゲームネタばっかりなので違うことでも。

ちょっと前に「かわいい女って何?」っていう議論を酒の場でした。これは非常に奥深い話だ。

普通「かわいい」ってのは見た目のことを言う。が、全盲の場合は「声」のことを言う。「かわいい」の定義はさておいて、一般的に外見の要素である見た目と声がかわいいならば、その女はかわいいに違いない。

ところが、「性格」い対してかわいいを主張する人もなかにはいる。これも個人の主幹が入るところなので今はかわいいという定義はしないでおくが、私としては「性格がかわいい」ってのは「おちゃめだ」とか、そういう観念のことだろうとして議論を進める。ちなみに「見た目がかわいい」ってのは、「鼻筋がいい」とか「目がぱっちりしてる」とか、声がかわいいってのは「声が高い」とかっていう要素がいろいろあって「かわいい」と判断されるってことでここでは議論する。

で、「かわいい女って何?」と。全部とは言わないが、本当にかわいい条件は、上記の三つ「見た目」「声」「性格」の3側面が全て満たされるときではないかと考えられる。と有人に言ったら「てめぇ理屈っぽすぎる」と怒られたけれども、じゃあお前えらかわいいって何?と聞いたところ。

「やっぱり貌がいい女だよ。」
「俺は全盲だから声がいい女がかわいいと思うな。」
「声は確かに全盲にとって重要な要素だけれども、実際に接してみて性格がかわいいなぁって思ったら、声はあんまり関係ないよ。」

ということらしい。最後の意見は、貌に対しても当てはまるだろう。いっちゃなんだがブスの女でも、中身がよければ問題ないってことだ。「美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる。」ということもあるし・・・。

けれども、実際全部がそろってると感じる人なんてそうそういない。典型的なのが「貌は綺麗なのに声がドスの効いた低い声」って場合もあれば、「声は高くていいけれども貌が・・・」ってことがよくある。まぁ、声優の貌をみるとそう感じることが時々あるようなのだが・・・。

ここで、俺の個人的な感想なのだが、「貌が良くて声はだめな女の方が多い」という印象がある。俺が「この個はだめだなぁ」と思っている子に限って友達からは「あれはやばい」と止められたことが何度もある。しかし「声がかわいい子にはそれなりに貌もかわいい子が多い」というパターンは比較的多い。俺がいいなぁと感じた女の子は、有人も「あの子ならいいんじゃねえの」と言っていたことが8割ぐらいはある。まぁそれでも、やっぱり声は良く立って貌がだめな子はいるのだが。

結構この仮説には自信があったのだが、AVになると自体は急変する。大学時代、キャンパスを歩いているときに「あの子かわいいよ!!」といいながら、上記のように俺の好みを客観的に判断してくれていた友人とAVを見たときの話。

俺が気に入っていたAV(全ては女優の声とタイトルだけから判断したもの)を見せたところ「お前の趣味が分からなくなったよ」と言われた。そりゃまぁ、AVって、貌とか体つきにしか興味いかなくて総合的に判断できないメディアだてのは承知の上だが、結局「声がかわいい」のも当てにならんのだなと、思った次第でありました。

さて冒頭の「かわいい女」とはどういうことかに戻ろう。で、「見た目」と「声」がそろっていたとして、後は性格だ。性格は実際に対象と接触してみないと判断できないことなのだが、一般的に「人は見た目によらない」というように、外見がかわいいからって性格がかわいい(良い)とは限らない。外見は良くても「ブリッ子」なやつ、外見はかわいくても「チョーむかつくんだけど!!あいつ死ねばいいわ~!」とか言うやつ、人間ってのは多種多様である。少なくとも、俺の感覚では前述の2パターンは糞だ。

で、書いてここまで書いたのはいいけれども、別に言いたいことがあったわけでもないし、眠くなってきたからもう書くのをやめようと思う。のだが、結局、全部がそろった女なんてそうそういない。なぁ。ほんとに。

前にも書いたが、最近時間に余裕があるためゲームを作ることにした。プログラミングも最近やってなくて何かやりたいなぁと思っていたし、もっと大きな理由としては、日本人の視覚障害者(とりわけ全盲)が遊べるゲームが多くないことがある。海外ではオーディオゲームというカテゴリで製品まで出ているが、日本ではなかなかそういうことまでいかない(セガサターンの「リアルサウンド~風のリグレット」とか、PC用の「インベーダー」とか、無くはないが)。日本製のゲームの少なさには他の人もいろいろ考えているようで、近年は全盲でも遊べるPCゲームを作る日本人も増えており、だんだんと状況は改善されてきているようにはみえるが、やはり一般のゲームの多様性に比べるとまだまだである。

で、まぁ日本での事情はともかく、プログラミングが好きな私としても、こうしたものを作ってみたいとは前から思っていたのだがなかなか時間が取れず、今まで過ぎ去ってしまった。けれども、過去を振り返るとそういうことは他のことでもたくさんあった。なので、せっっかくだから「作ろうと思ったから作るか」という気になったわけである。

現在はRubyでゲームを書いている。「最初はシューティングゲームが簡単」とネット上のあちこちで書かれていたので、俺もそれに習ってシューティングゲームを作っている。

初めはHSPという言語を使って書いていた。ゲームプログラミングに向いていることと初心者でも扱いやすい言語という評価が多かったからだ。

確かにHSPは簡単である。ぶっちゃけ、何も考えないでプログラムを作ることができる。私も、最初は何も考えずに簡単なシューティングゲームを作製できた。

ところが、いろいろと機能を盛り込んでいこうとすればするほど、言語使用レベルでの技術的困難を感じるようになった。一番の原因は、HSPは手続き型であるのに対し、俺がイメージする設計がオブジェクト指向になっていることである。もう一つ、HSPでもオブジェクト指向風にプログラムを書けるが、完全なオブジェクト指向ではないのでいろいろと気に入らない点我あったのだ。

例えば、プレイヤーに関してプログラミングすることを考える。プレイヤーには「名前」や「HP」、「位置」などの属性があって、「動く」とか「弾を撃つ」などの動作がある。これらの属性・動作というものをプログラミングするだけならば、手続き型言語でも大した事はない。属性は構造体、動作は関数として作ればいいだけの話だ。

ところが、HSPにはまず構造体のような抽象データ型がない。入門サイトを読んでいると、名前やHPを表す配列を作って、配列の要素番号でどのプレイヤーか判別しているような設計をよくみた。まぁ、入門者にはこの方が分かり安いだろうなと思いつつ、現実的なゲームを作るには問題が多い。そこでモジュールという機能がある。モジュールを使えば、HSPでも構造体っぽいものは作れなくはないので、属性に関してはとりあえずOKとする。

次に動作について。手続き的に作るのなら、「動く」や「弾を撃つ」などの関数を作って、引数にプレイヤーのデータを渡してやれば、処理を実装することが可能である。HSPのモジュールを使えば、そのモジュール内で使える関数を定義できるので、これでOKかと思いきや・・・。実際に作ってみると、モジュール内で定義した関数であってもパブリックな関数になってしまう。これは言語仕様らしくどうにもならない。俺の概念では、モジュールなどは名前空間を定義してデータやメソッドをカプセル化できるのが当然だと思っていたので、まずこの仕様がきにいらなかった。プレイヤーだけならまだしも、敵とかアイテムなんていう要素を導入したら、それぞれに対して関数を作らねばならないじゃないか。いやまぁ、オブジェクト指向だってそうなのだが、スーパークラスを作っておけば、振る舞いの違うメソッドだけオーバーロードすればいいじゃん。

このようにHSPの言語仕様に不満を持ってしまったため、使用2日にしてHSPを使うことはやめたのであった。ついでにいうと、goto命令がさも便利な命令として各所で取り上げられていることも気に入らなかった。当然goto命令を使わないでプログラミングすることもできるが、HSP公式のチュートリアルでgoto を使ったサンプルが普通に提示されていたことで、個人的に「やめろ!そんなもんコードが読みにくくなるだけだ!」と嫌悪感を抱いてしまったので、どっちにしてもHSPを使わなくなる運命だっただろう。

そういうわけでRubyなのだ。オブジェクト指向であるのが最大の理由だが、もう一つ、Rubyでゲームを作っている人がいたので、「じゃぁRubyにするか」と思った次第である。

Ruby自体、ゲームを作ろうと思って初めて勉強した。けれども、以前Pythonをやっていたおかげで、文法や式の書き方はあまりちゃんと入門書を読まなくても理解できた。細かいことを知りたくなったら言語リファレンスを見ればいいやという感じだ。余談だが、Rubyは日本人が作ったプログラミング言語なので、日本語の情報が多くて助かる。Pythonをやっていたころは、チュートリアルと言語リファレンスぐらいは日本語訳があったけれども、バージョンが古かったりして結局英語で読むはめになって苦労したものだ。まぁ、技術英語を読む訓練にはなったが。

というわけで、キャラクターの設計も楽だし、dxrubyっていうライブラリでDirectXも使えるし、最近Rubyがお気に入りである。まぁ、実際のゲームを作る過程ではいろいろ悩むことはまだまだ多いけれども。

現象学

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最近の俺の疑問は、どうやら現象学というものを学ぶ過程で解決しそうだ。あまり良く分かっていないのだが、「客観性をどう証明するか」という哲学的な問題に対して答えを与える考え方らしい。が、現象学の基礎としてカントまでの考え方をあれこれ総合することで、極端な解釈では「社会は相対的である」という結論に達するらしい。ただ、実社会は必ずしもそのような構造にはなっておらず、例えば「死ぬ」という概念は全人類に共通である。このように、共有された概念や事実をどううまく説明するか、という問題に対してある種の答えを与えるのが現象学ということのようなのだが・・・。

そして、入門部分で、上記の「客観性の証明」において、「主幹と客観」という観念を捨て去らない限り、論理的に客観性を証明することは不可能である、との記述があった。これは直感的に理解しやすかったので、個人的に共感を覚えたというのもある。良い例がコンピュータのプログラムで、あるプログラムが正しいことをそのプログラム自身が証明することはできない。プログラムが正しいことを証明するプログラムがあったとしても、その証明プログラムの正しさを証明するプログラムが別に必要である、という具合に、「正しさの証明」は永遠に続く。ゲーデルの不完全性定理でこれは周知の通り。

そういうわけで、現象学をかじってみようと思う次第。その前にデカルトやカントを勉強した方がいいかもしれないが。ただ、哲学って抽象的で、有名な文献は日本語訳された時代が古くて読みにくいし、だからと言ってヨーロッパの言語を勉強してまで本を読む気にはなれないし・・・。

物事は相対的だと、俺は思うのだ。絶対的なものなんて、この世に存在しないのではないか。

直感的に分かるものとして、人間のあり方ってのは非常に相対的だ。例えば、「どんな人間になるかは環境の影響が大きい」と言われることが多い。これは分かり安い例だ。環境なんてものは両親の性格や居住地域、周辺住民との繋がりなど人によってばらばらだし、変化しうる。従って、他人の環境と自分の環境とか、過去の自分の環境と今の自分の環境、といった意味で相対的である。

で、突き詰めていくと、抽象的な概念っていうのも結局は相対的なのではないか。分かり安いのは「価値」だろう。商品の価値、お金の価値などいろいろな場面で「価値」という概念が用いられるが、何かと比べるから価値が決まるのであって、価値が絶対的に決まることがあるとすれば、むりやりな論理に過ぎるだろう。。例えば商品でいうならば発売されて時間が経つと市場価値は低いと見なされるし、、流通量が多いのに需要が少なくても価値は下がる。金だって一国の中では絶対的な価値概念だとしても、多国間ではその価値は相対的で、常に為替レートは変化しているのだ。金本位制が崩壊し、ドルと円だって教科書に載るほど昔に変動相場制となったのである。

他に「関係」という概念も相対的である。「関係」という概念自体が、二つ以上の物事を対象とする概念だから、定義からして相対的なのだ。

これらの概念を持つ人間という生き物は、価値や関係、その他の諸概念を以て社会を形成し生きている。シンプルに考えれば、相対的な物事で構成されているものも、また相対的であろう。

もう一つ。自然も実は相対的であると思う。ちょっとかじっただけなので間違っているかもしれないのだが、例えば物理現象。電車に乗っている人と、その電車を外から見ている人のことを考えて見ると、電車は動いているから、外の人からは中の人は動いているように見えるが、電車の中の人は自分が止まっているように思えるだろう。常識の範囲で、窓の景色を見て動いていることを自覚することはあるが、純粋な物理の世界としては、前述のようになる。これは慣性系という考え方に基づくものだと、確か思ったけれども、とにかく「電車に乗ってる人」と「電車を外から見ている人」の二つの系では、運動の様子が違った形で観察されるのである。これは日常生活に近い例だったが、アインシュタインの相対性理論で説明されるように、宇宙の世界もまた相対的なのだ。

ただ、自然に関していえば、数学的な論理や物理の諸法則は、今のところ絶対的かもしれない。良い例が各種の自然定数である。自然対数の底(e)、プランク定数、ハッブル定数、光速度など、世界を決めていると言っていい定数は普遍である(だから定数なんだけど・・・)。また、様々な物理現象は数式として表すことができ、それらは自然を説明するのに不可欠な要素である。表現の仕方という意味では人間の都合のいいようにされているけれども、その本質は変わらない。まぁ、仮にパラレルワールドで別の宇宙が存在しているとすれば、全部相対的っていうことになるんだろうけど。

そういうことをだらだらと考えていた結果、この世は次のようなモデルで考えることができるのではないかと思った。「この世は、絶対的な自然的諸法則を土台として、相対的な事物で構成される」。

ここ2,3日、そういうことばっかり考えていたのだが、俺が2,3日考えて思いつくことなんだから、とっくにそういう考え方があるんじゃないかと思って検索してみたら、「文化相対主義」という考え方があるそうな。そりゃそうだよな。というか、みんな、きっと「社会は相対的だ」ってことに気づいてるはず。だからこそ社会を構成する経済活動も相対的な概念を土台としているし、いろいろな制度も広くみれば相対的である。そんな社会で「社会は相対的だ」って俺が思っても、別にぜんぜん新鮮な発想じゃなかったのかもしれない。

それでだ、研究者でもないのにこんなこと考えて無駄だとは思ったのだが、つい考え込んでしまい自分的には結果も出たので、どうにかして実生活に応用できないものか。まぁ、大枠のモデルだけ考えたから、実生活に応用にはもっときちんとしたサブモデルを検討する必要があるとは思うけど。

ちなみに何故こんなことを考えたかというと、「屍鬼」という小説を読んだからなのだ。もともとアニメで見ていたのだが、面白くなってきて途中が気になり、結局途中から小説を読んだという次第。相対主義がテーマじゃないとは思うのだが、「いろいろな意味で人間は一人では生きていけない」という性質を表現していると思った。

久しぶり。最近、「けいおん」と「Angel Beats!」がマイブーム。聴く曲が「ガルデモ」とかになってきてるし・・・。いや、「VERSAILLES」という人たちも、日本人としては案外イケテルと思った次第で・・・。

ところで、これも最近の話だが、たぶん俺は「をた化」が進んでいく模様である。つい、プリメインアンプを買ってしまった。

もともと夏のボーナスで「Black Cube Stamp」を買う予定だったのだ。BCLを持っているから、セットでスピーカーを鳴らせるシステムとして、BCL+BCSが現状での最適解かと思い・・・。ところが、BCSは本国で現在生産が中断されていて日本に入荷するのも全くの未定だそうで、ぶっちゃけ「とほほ」なわけ。

それで昨日、友人がイヤホンを取りに行くのにつきあったとき、その友人がショップの店員に余計なことを吹き込んだらしく、何故だか知らないが自宅へプリメインアンプを発送する手続きをしてしまっていたのである。っていうか、BCLをプリアンプとして使うのにプリメインアンプを買うのもどうなのかと思いつつ、普通にセパレートでやるんだったら予算オーバーになるので、「パワーアンプへダイレクトで出力すりゃ別にプリメインでもいいのでは?」的発想が生まれ、結果こういうことになっているのだが・・・。

で、今俺の目の前に鎮座しているのは、PMA-2000SEというデノンのプリメインアンプ。現在の構成は下記の通り。

  • 基本音楽はPCで再生(当然ロスレス)
  • PCとBCLをUSB接続
  • BCLとPMA-2000SEを接続し、パワーアンプダイレクトで使用
  • スピーカーはB&Wの705、スピーカーケーブルはキンバーのやつ
  • 電源ケーブルは、BCLにPSAudioのXPD1.8、PMA-2000SEにオヤイデのケーブル。

とりあえず、以前はアイコンをプリメインで使っていたのだが、それに比べるとボーカルの輪郭がはっきりした。そして、全体的に音に厚みが出た。しかしながら若干高域が曇った感じになり、さらに繊細さに欠ける音になった気がする。やはりデノンだ。ポップスとかジャズを聴くならまだしも、これでクラシックは聴いてはいけない。・・・というほどでもないが、まぁ、クラシック向きじゃないアンプだろうと予測してPMA-2000SEを買っただけあり、それは証明されてしまった。

当初は電源ケーブルをBCLと2000SEで逆に繋いでいた。しかし、オヤイデのケーブルは音が柔らかくなる分低音がぼけるというデメリットがあるため、プリアンプに堅めの音が出るXPD1.8を付けることにより、とりあえずは安っぽい低音が出ないようにはなった。

そういうわけなのだが、ひょっとしたら今の俺の機器構成ってあんまり良くないのかもしれない、とか思いつつ・・・。2000SEにはIkonというスピーカーが非常に愛唱良いらしいのだが・・・。いやいや・・・。

ちなみに酔ってる。なんか、物を書く気になる酔っぱらい方だ。さっき、Angel Beats!を見て号泣してしまったからなのか、いや・・・ちょっと、ハロウィンって感じだ。そう、カボチャを切断したときの切断面みたいな顔してる女がいたらすごいな、と、ちょっとだけ、ちょっとだけ想像しただけなんだ。

さらに余談だが、何故ゆりっぺはM92Fを使っているのか?レビのまねか?「ハンドガンならとりあえずベレッタかグロックにしとけばいいんじゃね?」的発想が Angel Beats! からは読み取れちゃう俺。どうせなら、M4とかAK47とかMP5とか使えよ!そもそも狙撃手がいないってどういうことだ?全員ポイントマンか?っていうか、銃を使った戦闘って時点で現実感あふれまくり。もっと、魔法とか使えばいいのに。まぁいいや。

それでは、トイレに行ってくる。

だいぶ堅い話になるが。

会社でよく「目的を考えろ!手段にこだわるな!目的のためなら手段を選ばず、という言葉もあるだろう」みたいなことを言われる。でも、なんか、俺は納得できない。何故だろうと考えてみた。

結論をいうと、以下の3点の理由により、俺は納得できない。

  1. 定量的に、目的よりも手段の方が圧倒的に多数であるから。
  2. 手段が目的化する場合が少なくないから。
  3. 目的を達成するための「正答な」手段が存在すると思うから。
  4. それぞれについて説明する。

    まず、「定量的に、目的よりも手段の方が圧倒的に多数であるから」という理由。例えば「アニメを見る」という目的に対して、その手段は何通りも存在し、それは「テレビで見る」「DVDで見る」「ネット動画配信で見る」などである。そして、さらに例えば、「テレビで見る」に対しては、それを「テレビの電波を受信する」に置き換えれば、「テレビ(家電)で受信する」「PCにテレビキャプチャを付けて受信する」など複数の手段が存在する。このように、元の目的に対して、それを実現する手段は複数あるため、目に見えるものとして「手段」が顕在化しやすいということだ。つまり、顕在化しやすい=意識しやすい、ということであって、目的よりも手段が優先されてしまう一要因である。

    次に「手段が目的化する場合が少なくないから」という理由。上記の例でいうならば、「アニメを見る」という目的に対して「テレビで見る」という手段を選んだ場合、次に考えるのは「テレビを見る」という目的に対して「家電で見る」か「PCで見るか」の手段を選ぶ。これは手段が目的化する一例である。

    また、別の例を挙げると、「アニメの得点を見たい」という目的に対して、最近では「ブルーレイでないと得点が付いてこない」という場合がある。これはつまり、手段として「DVD」や「ブルーレイ」などのメディアを選択できるにも関わらず、「ブルーレイ」でないと目的が満たせない、という状況が起こる訳で、すなわちそれは「手段の目的化」である。「アニメの得点を見たい」という目的が「ブルーレイで見る」という目的にすり替わっているからだ。

    最後に「目的を達成するための「正答な」手段が存在すると思うから」について。極端なことをいうと、「石油を手に入れたいという目的に対して、他国と戦争するという手段を取る」のは正答だろうか?「お金が欲しいという目的に対して、他人から金を盗む」というのは正当な手段だろうか。それぞれ、「他国から石油を輸入する」、「働いてお金をもらう」など、社会通念上「目的に対する正答な手段」があるはずだ。

    これまでの説明では、「仕事(業務)」において些か拡大的視点が含まれていることは否定しないが、「仕事(業務)」も社会の一つの営みであるのだから、現実を踏まえて考える必要はある。だから、それを体系的に整理したのが規則や法律なのではないだろうか。

    もう一つ、ここでは政治的・社会的な「思惑」が介在した結果については考慮していないことを断っておく。具体的には、ブルーレイの例なんかは、たぶんメーカや関係団体の市場占有や売り上げ拡大などの思惑が多々あるものと思うが、それは抜いて、個人としてどうか、ということについて述べている。

    と、「興味本位でBlu-Rayドライブを買って、得点に釣られてアニメのブルーレイ・ディスクを買いあさっている俺」を客観的に見たとき、ちょっと思ったので書いた。説明はともかくとして、結論は基本的にその通りだと、俺は自負しているのだが・・・。

平等っておかしな概念だと思う。差別はいけないと思うが、平等という概念も、差別と似たようなものではないか。

例えば、以前は女性差別が問題となっていた。どこもかしこも男尊女卑の考え方が強く、女性には男性と同じ権利・立場が与えられていなかった。そうした背景から、近年、男女雇用機会均等法ができ、女性が社会進出できる世の中になった。

女性にも男性と同じ権利が与えられ、男女平等な世の中ができつつあると、フェミニストはいうかもしれないし、逆にまだまだ差別はあるとフェミニストが言うかもしれない。

けれども考えて欲しい。社会進出という大枠でみれば平等になったかもしれないが、もっと局所的にみれば、必ずしも女性と男性の立場は平等でないのだ。

代表的なのが主婦システムである。前から「男が外で働き女が家を守る」というのが考え方として一般的だった。けれども、裏を返せばこの逆はあり得なかったのである。法律ができたので、「女が外で働き、男が家を守る」というシステムも成立すると思うが、世間はそれをあまりいいものと認識していないのではないだろうか。まぁ、主夫業に十時している男性もおられると思うが、どちらかといえば肩身は狭いんじゃないだろうか。

もう1つ。男性・女性といったことではないが、最近いろいろな会社で言われている「ダイバーシティ」という言葉。これなんて、まさに行き過ぎた平等の反動が生んだ言葉ではなかろうか。

ダイバーシティとは、性別・国籍・傷害の有無・家庭の事情など、それぞれの多様性を受け入れて会社生活を送ろうという動きである。これはひとえに「人それぞれに抱えているものは様々」という思想がある。これは平等に相反する考え方である。変な話、差別が問題になってきたころは平等に仕事をさせても支障がなかったのに、平等が定着してくると仕事のさせ方に多様性を考慮しなければならなくなったということになる。

で、結局何が言いたいのかというと、平等なんて幻想はやめた方がいいと思うのだ。そして、区別をする必要があるんじゃなかろうか。差別の場合は偏見があるのでだめだが、区別とは「複数のものの特徴でものを分けること」なので。今社会に必要なのは区別だ。平等に物事を考えていたら、きっと世界は破滅するだろう。

以上。

あの、「いく」っていう単語を漢字変換したときに、一番最初に「イク」って出てくるのはやめてもらいたいんですが。これは漢字じゃなくてカタカナです!

ところで、この前の水曜日にCDが来た。奈々の。それで、予定通りポスターも付いてきたわけだが・・・。今日、要約壁にポスターを貼った。

さて、貼ったのはいいが、向きはどうなっているのか。というか、向き云々の前に、ドアに貼ろうと思っていたのにポスターが大きすぎて貼れないし。しょうがないからベッドの横の壁に貼っておいた。どっちかっていうと、こっちの方がいいかもしれない。すぐそばに奈々が・・・。目が覚めれば奈々がいるし、横になれば奈々がいる・・・。まぁ見えないけど。それどころか、奈々を逆さづりにしている可能性もあるけど・・・。それはそれでシュールかもしれない。

あぁ、ベリー・ベリー・キュートな女はいませんか。かわいいのではなくて、ベリー・ベリー・キュート。そう、 very very cute girl! So, not pretty! cute じゃなきゃだめよ、 pretty girl!

じゃ、 pretty と cute って何がどう違うの?それって、「かわいい女子高生」と「かわいい小学生」みたいな違いですか?それとも、何か哲学的な違い(philosophical difference)があるとでもいうのですか?

ここで cute と pretty の議論をするのは本意ではない。問題は、「世界で一番美しいのは白雪姫です」とぬかした、あの鏡だ。なめている。何の根拠で白雪姫が no.1 なんだ!っていうか、白雪姫って、英語で "princess of white snow" とかいうの?どうなの?

それはどうでもいいが、絵本に書かれている白雪姫は、そう大して美しくもなかったような気がするのだが・・・。っつうか、グリム童話みたく世界的に有名な童話には原画があるんだろうか。原画があるならあれだけど、原画が無いとすると、出版社ごとに絵が違うじゃないのか?そりゃ文字だけで出版してる本もあるかもしれないが、子供向けの本には絵があることが多いだろう。それに、たまに教育テレビとかでもやっていそうになる。じゃぁ、そのときの白雪姫の絵って、だれが書いてるの?結局のところ、白雪姫が一番美しいかどうかは、作画する人の腕前にかかっていることになりそうだ。

ということで、毒林檎製造マシンがいつか販売される日を夢見て。夢見ます。ちなみに用途はゴキブリの殺害。

通勤電車での会話。大学生っぽい人がこんなことを言っていた。

「社内放送で、よく『押し合わずに降りてください』って言ってるじゃん。そんなの無理だよな。だって、押されるもん。だいたい、何でみんなそんなに急ぐのか分からない。急がずゆっくり降りろよ。そりゃ時間がなくて降りれなくなるかもしれんけど、それはそいつが悪い。」

この人は自問自答していることに気づいてないだろう。この人の疑問である「何故急いで降りるのか」という疑問の答えは、間接的には「時間がなくて降りれないこともある」ということなのではなかろうか。降りるべき駅で降りられないのは大変だ、だからみんな急いで降りようとする。結果、電車から降りるとき、みんな人を押すのだ。

最近、そういう細かいことが気になるもので・・・。でも、そいつの連れが言った一言には俺もつい共感してしまった。「最初に押すのってだれなんですかね」。そうだ、誰だ、最初に押すのは?!誰かが押すから連鎖的にみんなが人を押すのだ。だから、だれも押さなきゃ押し合うこともない。けれど、さっき言ったように、満員電車は人が人を押すような心理的効果を内包しているので、結局「最初に押すのってだれ?」という疑問も、方向性がよく分からない疑問なんじゃ?

っていうか、明日もまだ仕事じゃん。うぜえ!酔っぱらっていい気分なんだ、俺は。会社行きたくねえ!マジだりぃ。いろいろ理不尽というか、そんなことばっかりだよ。

この前、運良く資格試験に合格したけれども、だからって会社での状況が変わるわけじゃない。なんだよ、いったい。このままじゃ、俺はスパゲッティーを食べるぞ!無いけど。

楽天の三木谷さんはいい人だと思う。いや、それは分からないが、とりあえず楽天はそこそこやるなぁと思った。

というのも、最近の厚生労働省のネットでの医薬品販売規制の件で届いた楽天からのメールで、三木谷氏のコメントとして「障害者も困っている」という趣旨の内容が盛り込まれていたからだ。まぁ、ネット通販を利用している障害者からそういう意見が楽天にもたくさんきたのであろう。しかも、「ネットで医薬品が販売されることで、視覚障害者も薬を買うことができたんです」という旨の文章があった。おお、直できたよ!

そういうわけで、楽天からのメールを読んで、俺もパブリックコメントを寄せる気になった。

ネットで薬が買えなくなるというのは、三木谷氏が言っているように視覚障害者にとってはつらすぎる。一般的な状況とは裏腹に、視覚障害者はネット上の方が各種製品に関する情報を得やすいのである。それは使い勝手とか効能とかいうことではなくて、製品の成分・用法・禁止事項などに関してである。

それに、何より自力で買い物ができるという点がネット通販の強みだ。だって、考えて見て欲しい。薬局で買い物の手伝いをしてくれたのが、とても若い、かわいいお姉さんだったときに「コンドームが欲しいんですけど」なんて言えると思うか?言えない・・・。例えおばさんだったとしても言えない。

まぁ、コンドームはきっと今回の規制の対象じゃないと思うが、製品選択の機会という観点から、ネットで薬が買えなくなるのは痛すぎる話だ。

そもそも、今回の規制の前提として、ネットでは薬に関する副作用などについて十分な説明無しに、消費者が購入できてしまうことを問題としているようだ。けれども、薬局で買えば十分な説明が受けられるのだろうか。薬局の店員がみんな薬剤師ならともかく、ただの転院に十分なリスクの説明ができるとは思えない。すなわち、店頭で買うこと=薬に関する十分な説明が受けられる、ということではないと思うわけだ。

ちょっと強引だが、説明が必要なぐらいの副作用を伴う薬なら、処方薬にするべきである。注意事項程度なら、薬局で買おうがネットで買おうが正直変わらない。注意事項を守らないやつが悪いのだ。

そういうわけで、今の厚生労働大臣って誰だ?あぁ、あの人か。桝添さんって、昔TVタックルで田島さんとバトルしてたころの印象が強すぎて、インフルエンザとかの発表してるのは「似合わないなあ」と思う今日このごろ。

じゃ、行ってくる。トイレに。

女性専用車両。賛否両論あるが、男としては利用してみたいと思うのは自然なことだろう。だって、女しかいないのである。

ところが、いざ乗ってしまうと平常時の妄想は一気に吹き飛ぶ。何も意図的に乗るというのではない。俺のような全盲は、間違って乗ってしまうことがあるのだ。

というのも、今日、乗ってしまったのだ。しかもフルタイム。弁解しておくがわざとじゃない。乗ったときには気づかなかったが、電車が進むにつれて違和感を感じ、とうとう駅員に注意されてしまったのである。

俺がいつも利用する時間帯、一般車両はそれなりに混雑している。しかし今日乗った車両は妙に空いていた。時間があれば車両を変えるところだが、あいにく駆け込み乗車しちゃったのでそういうわけにもいかない。

違和感を感じたのは2駅ほど進んだころ。聞こえてくる会話に男の声が全くない。靴音はヒールのようなものばかり。そして、さらに数駅進んだところで、頭の悪そうな女子高生が「あいつ、きもい」と言っているのだ。「死ねばいいのに」と思いつつ、その時点でここが女性専用車両であると確信した。

気づいた時点で車両を変えればよかったのかもしれない。ただ、だいぶ前に間違って女性専用車両に乗ったとき、車両を変えようとしたら電車が行ってしまったことがあり、その電車を逃すと会社に遅れそうな状況ではやる気になれなかった。

乗っている間、とてもじゃないが妄想なんてできわけがない。「俺は障害者。一応、男でも利用はできる立場にあるんだ」と必死に自分に言い聞かせ、ものすごく後ろめたい気持ちで電車にゆられること25分。

会社の1つ手前の駅でとうとう駅員に声をかけられた。「そこの男性のお客様!ここは女性専用車両ですから降りてください」と。いや・・・だから、俺はさっきからずっと降りたかったのだ・・・。

とりあえず白杖と障害者手帳を見せたら、その駅員は納得してくれた。けれども、もうこんな後ろめたい気持ちで電車を利用するのはごめんだ。

ということで、「障害者っぽい人でも、女性専用車両に乗りそうになってる男を見つけたら声をかけてくれ」と、鉄道会社に電話しておいた。効果があるのかどうかは分からないが・・・。

さて、今日の体験を踏まえ、女性専用車両に対して日頃から思っていることも含め、少し考察してみよう。

まず、俺は女性専用車両を否定はしない。が、設置場所については言いたいことがある。一番後ろとか、一番前の車両が女性専用ならそう問題はないが、真ん中付近に女性専用車両があると困る。今日ひっかかったのはこのタイプである。「5号車が女性専用です」とか言われても、5号車ってどこやねん?

ただ、当初は末端の車両を女性専用にしようと計画していたが、「階段から遠い」という身勝手な主張が利用者から挙がったおかげで、真ん中付近に女性専用車両を設置したという事情もあるようだ。だが、全駅でそうならともかく、駅によって階段の場所がばらばらなんだから、そういう主張が通るのもおかしな話だ。主要駅だけを基準に考えないでほしい。

次に「お体の不自由な男性の方もご利用いただけます」というスタンス。まぁ、これは逃げ道としては必要であろう。例えば一般車両は混雑していて車いすが乗れないとき、比較的空いている女性専用車両で我慢してもらうということができるからだ。まぁ、車いす利用者にとっては迷惑な話かもしれないが、そこらへんは物理的な制約もあるということで・・・。

ただ、「お体の不自由な方」って、具体的にだれですか?「身体障害者手帳保持者」という定義であれば、鉄道会社としての対応に破綻はないと思う。でも、それって女性専用車両の利用者からするとどうなんだろう。というか、一般的に、目が見えないとか、耳が聞こえないって「体が不自由」なのか?身体機能の一部に傷害があるにはあるが、一般的なイメージと少々違うような気がするのは俺だけだろうか。

そういったことにあまり関心のない女性が、女性専用車で男を見たとしよう。普通「きもい」と思うだろう。そして、「何故周りの乗客は注意しないのだろう」と疑問を持つに違いない。そう、今日俺が見た「頭の悪そうな女子高生」のように。

で、結局どうしたらいいかというと、もっと利用客を限定すればいいと思うのだ。「車いす利用者」とか、その他駅員が必要と認めた人、とか。ちょっと法律っぽいが。ただ、そうした場合、該当しない障害者が間違って女性専用車両に乗らないよう、鉄道会社が対策をしなければならない。俺が要望したように、係員が声をかけるなどして。これは多少面倒なことなので、鉄道会社としては採用しない可能性が高い。

最後に、女性専用車両を利用する女性客にも一言言いたい。お願いです、男の障害者が乗ってきたら「ここは女性専用車両ですけど・・・」と教えてやってください。モラルのある人ならすぐ降ります。車内放送で「女性専用車両にはお体の不自由な男性のお客様もご利用いただけます。お客様のご理解を・・・」みたいなことは無視していいです。ただし、女性の介助者と同伴の場合は注意していただきたい。あくまでも、「単独で乗ってきたやつ」にだけ声をかけてもらえると有り難いです。男の介助者と男の障害者の場合は微妙だけど、うーん、俺はそういう人には乗らないで欲しいと思う。車いすとか、そういう明らかな事情がない限り。

逆にいうと、男の介助者が乗る場合、同伴者が女性だろうが男性だろうが、周りの乗客で一応「すいません」とか声をかけて、事情を理解してもらおうとする姿勢を見せるのが筋だとも思う。それなら大半の女性客は納得してくれるのではないだろうか。

まぁ、乗ってきた男に声をかけるというのは、女性からすると声をかけにくいかもしれない。ましてや鉄道会社は利用を許容している障害者に対しては。けれども、そこらへんは一つ、勇気を持ってお願いしたいところである。そこで逆上するような男は、思いっきり人権を踏みにじってかまわないので。

以上。

久しぶりに更新するのに、こんな重苦しい話題で恐縮ですが。先に言っておくと、これはつまらない主張であるかもしれないし、おそらく長い。コンピュータとか仕事に興味がない人は読まない方がいいと思う。


仕事柄、最近はIT業界の動向についての話題を目にすることが多くなった。その中で際立っているテーマが「クラウドコンピューティング」である。昨年アメリカを発端とする世界的な景気の後退が起こり、今後しばらくはその状態が続くと見込まれている。そんな中で、クラウドコンピューティングが非常に注目を集めている。

クラウドコンピューティングが何かということは、ちょっと検索するだけで様々な情報が出てくるので言及することはしないが、話の見通しを良くするために簡潔に説明しておこう。多少誤っているかもしれないが簡単にいうと、クラウドコンピューティングとは、ITをネットワークを通じて利用する形態のことである。平たくいうと、インターネット上で提供されているサービスとしてのソフトウェア(SaaS)や開発環境(PaaS)をひっくるめた名称である。考え方としては以前からも存在していたが、2006年(だったと思う)に、GoogleのCEOが「クラウド」というキーワードを発したことで再度注目されるようになった。

もう少し技術的にいえば、WWWブラウザだけでデータ管理やシステム開発などを行うことができるようなサービスをイメージすればよいだろう。つまり、今まではPCにソフトウェアをインストールして使っていたものが、事業者と契約するだけでインターネットを介して使えるようになる、とも言える。

さて、俺が考えたいのは、「クラウドコンピューティングは視覚障害者のコンピュータ利用をどう変えていくのか」ということだ。

クラウドコンピューティングは、上述したように不況の今、企業にとっては注目度の高いITの形態である。というのも、書記費用を抑えられたり、運用コストを削減できたりといったメリットがあるからである(ただし、一概にそうは言えない)。すなわち、今後企業でクラウドコンピューティングを導入する傾向が高まっていくことを示唆している。

ネットワーク上をデータが飛び交うため、クラウドコンピューティングはセキュリティ面での課題をかかえているが、それを考慮しても、一般的にはすばらしい概念と考えてよい。ところが、あくまでこれは一般的にということであって、視覚障害者に的をしぼってみると、逆にセキュリティ以前の問題を考えなければならないという問題に変わってしまう。それはクラウドコンピューティングを支える技術に起因するものである。

普通、クラウドで提供されるサービスというのは、ブラウザ上でOSにインストールされたアプリケーションと同様の操作性を実現している。その根底にある技術は、Ajax、Adobe社のフラッシュ、そして、フラッシュと対抗する位置にあるマイクロソフト社のシルバーライトなどである。一般の人は、よくできたサービスであれば、(技術的に長けた人を除いて)そう差異を気にせずにこれらの技術を利用できる。しかし、スクリーンリーダーを用いているユーザーにとってはそうもいかない。端的に言えば、アクセシビリティの問題が非常にやっかいなのである。

ここで、まずは現在広く利用されているWindows上で動くアプリケーションについて考えてみたい。スクリーンリーダーのメーカーは、普及したWindowsで利用できるスクリーンリーダーを努力して開発してきた。その結果、今ではずいぶんとWindowsをスクリーンリーダーで利用しやすくなった。この状況は、Windows標準のAPIを利用して作られたアプリケーションについては、そのAPIをうまく読み上げることのできるフレームワークがあればスクリーンリーダーで読み上げ可能である、ということが要因となっているはずである。Windows標準でないアプリケーションに対しても、昨今の状況を加味して、スクリーンリーダーメーカーと、標準的でないAPIを使ったアプリケーションを製作しているベンダーが協力して、徐々にスクリーンリーダーで使えるアプリケーションを増やしてきたという歴史もある。だが、突き詰めて考えれば、これはあくまでWindowsという限定的なプラットホームで動くスクリーンリーダーを作ってきたということに他ならない。

ところが、クラウドコンピューティングの根底技術にある技術(あるいは、Web2.0の潮流の中現れたリッチクライアントやRIAとも言える)は、必ずしも1つのプラットホームというわけではない。前述のようにAjax、フラッシュ、シルバーライトなど、動的なウェブページを生成できる技術が、それぞれのベンダーの思惑の上で市場シェア競争を展開しているのである。

当然、現在の風潮として、アクセシビリティを確保するためのインターフェースはこれらの技術にも存在している。が、それぞれの技術でカバーできるアクセシビリティも違えば、実装の面でも異なるものだ。MSAAのように、Windowsという1つのプラットホーム上で提供される支援技術とは少し事情が違う。

そして、一番の問題なのは、開発者が、それらアクセシビリティ機能を意図して作らなければ、スクリーンリーダーにとってアクセシブルなコンテンツを作ることが難しい、という点である。ただし、これはWindowsに限っても当てはまることではあるが。

ただ、スクリーンリーダー側からの支店でみると、Windowsの場合、Windowsの標準APIに対応すれば、それに準拠したアプリケーションには基本的に対応できた。しかしながら、Web上で使われているフラッシュやシルバーライトなどについては、それぞれの技術ごとに各API(というよりは技術標準のコントロールといった方が適切かもしれない)に対応する必要がある。つまり、フラッシュに対応したからといって、シルバーライトやAjaxも使えるようになる、ということではないのだ。

結局、存在する技術の間で標準化されたインターフェースがない限り、スクリーンリーダーとしては各技術に対応するしかない。それはWindowsの標準インターフェースに対応することより労力を必要とするであろう。これが、クラウドコンピューティング時代に視覚障害者、とりわけスクリーンリーダーのユーざーが直面する問題の根本的な原因であると、俺は考えている。くどくなってしまうが、見た目には同じようなツリービューだったりダイアログであっても、使われている技術体系が異なる以上、スクリーンリーダーは個々の技術に対応しなければならないのである。それは、各技術がそれぞれにアクセシビリティ機能を持っていたとしてもである。それらのインターフェースが統一されていなければ、結局個々のアクセシビリティ機能にスクリーンリーダーが対応していなければならない。

最も、基本的な部分ではそれが達成されている。Web標準、つまりW3Cのガイドラインに沿った形で情報を提供すれば、たいていのものはスクリーンリーダーでも読み上げることは可能だろう。

そして、上記のような問題を解決するために、最近勧告になった、W3CのWCAG2.0、加えて(まだドラフトだが)WAI-ARIAといったガイドラインに沿って、各技術がアクセシビリティのためのインターフェースを実装してくれれば、表面上の問題は解決すると期待できる(WAI-ARIAについてはスクリーンリーダー側の対応が必須である)。

一通り技術的なことに言及したところで、利用者としての立場を述べたいと思う。正直なところ、技術にそれほど精通していない人にとって、上記の議論はどうでもいいことである。いや、個人的にはそういうことに積極的に関わって欲しいと思うが、スクリーンリーダーのユーざーには決してそんな人は多くないというのが実情だろう。そこで問題となるのが、今のWindowsアプリケーションと同様のレベルで、クラウド上のシステムを利用できる程度に技術水準が向上するまで、テクノロジーに詳しくない人はどうしたらよいのだろうか、ということなのである。

2014年にはクラウドコンピューティングの市場は1,400億円になるとの予測がある。その中で、企業で働くスクリーンリーダーユーざー(ほぼ全盲であろう)がこの問題に直面することは避けられないであろう。だいたい、マイクロソフトのオフィス製品を使うのにも一苦労なスクリーンリーダーユーざーが、果たしてもっと悪い状況のクラウド環境でやっていけるのだろうか。

これは自分の身を考えても不安なことであるが、逆にそれを克服できるソリューションがあれば、(市場はきわめて小さいが)ビジネスとして切り開くことができるということではないか。技術的課題はとっても多いが・・・。

と、取りとめもなくいろいろ書いたが、結局俺は何をいいたかったのだろう。だいぶ酒が回ってきて、だんだん意味が分からなくなってきた。が、要するに俺はそういう分野に関わりたいのである。受託開発を主にやってる会社に入社したものの、ぜんぜん仕事がなくて、最近気分が落ち込み気味で、そういう中でいろいろ考えて出た結論が「やっぱり全全盲は全盲のためにできることを模索することがいいんじゃないのか。逆にそういうフィールドであれば多少は活躍できるんじゃないか。」ということだった、なんていうことが、こう、いろいろ俺に書かせてしまったんだ、きっと。

だからね、俺はいずれそういう路にいくよ。だからもっと勉強します、楽しんで。

明日も会社だけど、ストロング・セブンを2本も飲んでしまったので気分がいい。もう寝ようと思うのだけれど、その前に熱く煮えたぎった俺の思いを書き連ねる。

まず、しょこたんは素晴らしい。奈々に匹敵する。見てくれがどうこうとか、そんなのはどうでもいい話だ。曲がいいんだよ、歌詞がいいんだよ。だいたい奈々はかわいいけどしょこたんはかわいくないって、そんなのかんけ~ね~!引きこもりになってしまった人とか、しょこたん聴いた方がいいよ。仕事し始めたとき俺はしょこたんの歌を聴いて頑張ろうと思ったし。

次にこんにゃくゼリー。こんにゃくゼリーが背負った運命は周知のとおりであるが、何故こんにゃくゼリーが責められて餅が責められないのか。こんにゃくゼリーを咽に詰まらせて亡くなった方はきのどくだけれども、中には「あかちゃんに食べさせないでください」という注意書きがあるにも関わらずあかちゃんに食べさせて亡くなったこともあるようだ。それに、こんにゃくゼリーで死んだ人より餅で死んだ人の方が多いという結果さえある。こんにゃくゼリーを責めるなら餅だって責められてしかるべきだ。こんにゃくゼリーを販売中止にするなら餅も販売中止にしろ。餅を売るならこんにゃくゼリーも売れ!こんにゃくゼリーだけでなく餅の安全性についても調査しろ!

最後に過疎地域の問題。知らなかったが、3月から集落支援員という人たちが活動を始めるらしい。国が雇った人手、集落を支援するための要員だという。過疎地域を活性化させるには人の支援が必要だというスタンスのもとで始まる制度のようだ。俺もそういう仕事したい。最近農業がやりたくてたまらない。無理なのだが・・・。障害者というのは、そういう職業が難しいからほんとやだよな。だって、だれにだってできる仕事は障害者にできないんだもん。悲しい事象だよ。というか、厳密に言うと、集落を支援したいと思っても、障害者である以上それは難しいのが歯がゆいということなのだ。そりゃ、今の仕事よりそっちの方が楽そうだなと思ってないと言われればうそなんだけど・・・。でもね、過疎地域だって困ってるんだよ。支援したいじゃん。でもできないじゃん。障害者はオフィスで働くしか方法がないんだろうか。なんか、訳分からなくなってきたけど、とにかくだな、若者よ頑張れということなのだ。

明日で仕事も終わり。3連休が待っている。髪切りに行こう。

昨日、「インカ帝国の成立」を通して歴史に興味を持ってもらいたいと書いた。

今日はこの作品を読み、読書のすばらしさを実感してほしい。

それは、田山花袋の作品、「少女病」である。青空文庫でも読める。

この作品は、主人公の杉田古城が、電車で巡り会う美しい娘たちに思いを寄せる様子を描いたものである。

杉田はかつて名の知れた文学者であったが、発表する作品が少女に関するものばかりになってきて、世間から笑いものにされ、今では雑誌社で雑誌の構成をやっているしがない中年男性である。見てくれは、簡単に言うとゴッツイ。

そんな杉田は、歳を取った妻や、嫌みな編集長のいる雑誌社での生活にあきれていた。だが、通勤途中で出会う娘たちを見ることが彼を癒していたのだ。しかし、最後には電車に乗っている美しい娘に気を取られ、周りの乗客がよろめいた時にそのまま車外へ投げ出され、反対方面の電車に轢かれてしまうのであった。

現代には杉田のような男はいくらでもいる。私の周りにもいる。作品の一節と題名を借りていうならば、彼らは「少女病患者」である。そして、彼らの環境は確実に良くなっている。それは、田山花袋の生きていた時代と今を比較すれば明かであろう。

女子高生はセーラー服を着ているし、若い子は、特に夏など露出度の高い衣服を着用していることが多い。現代の通学時間帯の電車内は、過ぎたにとって、もう聖域であるに違いない。それは現代の少女病患者にも言えることだろうけれど。

この作品からは、様々な手法を学び取ることができる。

例えば「二」の第二段落の終盤から「二」の最後までを読むことによって、次のことを導ける。

  • 綺麗、あるいはかっこいい人をみつけたら、その人が落とし物をしないかどうか観察する。落とし物をしたら、だれよりも速く真っ先にそれを広い、渡す。

他にも、「四」の第二段落中場から終わりにかけての文章からは、電車の中で娘を観察するための細かな手法が説明されている。

初期の少女病患者にとって、この作品はバイブルとなるであろう。しかし、作品中で杉田自身でそのような手法を自然と身につけたと書かれていることや、私が友人を見ていて感じるように、おそらくこうした様々な観察手法は常に効率的なものが個人によって生み出されているに違いない。しかも、明治時代とは比較にならない現代の環境では、基礎を押さえつつ、いかにして応用していくかが課題となるであろう。つまり、物事には基礎が大事だということだ。

このように、「少女病」という作品は、私たちに大切なことをいくつも教えてくれた。読書することの楽しさ、文章から妄想することの喜び、文章を読み解く力の必要性などである。だから、是非とも高校の教科書にこの作品を・・・。

ところで、私の20年後も、この杉田のようになっているかもしれない。

「インカ帝国の成立」という曲(動画がYouTubeにあります)。

これはインカ帝国が成立するまでの出来事を歌にしたもので、史実に基づいたアカデミックな内容となっている。ほとんどの日本人はインカ帝国の存在は知っているものの、その成立や滅亡などについての知識は皆無と言って良い。この曲はそんな日本人が少しでもインカ帝国について学ぶ機械を与えるであろう。

作詞、作曲、歌を担当するつボイノリオ氏は、過去に吉田松陰に関する曲も手がけている。しかし、今回の「インカ帝国の成立」は日本の歴史ではなく外国の歴史である。インカ帝国について取り上げたことを、つボイノリオ氏は次のように語っている。

「ペルーは日本と非常に関わりが深い国であるのに、日本人は過去から現在に至るペルーについてほとんど知らない。何故かというと、教育されていないからに他ならない。我々の祖先がベーリング海を渡り北米から南米へ移動したことからも、ペルーと日本の間には強い繋がりがあることが分かる。だから、私が日本の教育の一端を担うような役割をしようと思った。」

これは『「インカ帝国の成立」の成立』という番組でつボイノリオ氏が述べていたことをまとめたものである。

ここではインカ帝国に関してあえて触れず、曲を聴いていただいたり、ウェブでインカ帝国について調べていただくことによって、読者にもインカ帝国に対する知識を深めてほしいと期待する。

だが、教育の中でインカ帝国が軽視されている理由には触れておかねばなるまい。

元来、日本の教育では古代の4大文明として、エジプト文明、シュメール(メソポタミア)文明、インダス文明、中国文明が取り上げられている。これらは考古学者の間でも、古代文明の中心的なものとして深く研究されてきたからである。

一方、これまで考古学者たちは南米のメキシコ・マヤ、アステカ、インカの文明についてはほとんど興味を示していなかった。これらの文明が成立していたころ、ヨーロッパでは都市同士の交流が盛んで、多種多様な文化が混じり合い、大きな文明が気づかれていたのに対し、インカやアステカ、マヤは山脈や海などで他の文明とは孤立しており、その地域だけの部族で文明を構成せざるをえなかったのである。

すなわち、文化の交流があった文明の方が発展を遂げ、孤立していた文明はそうでもなかったという思いこみがあったのであろう。インカやアステカがヨーロッパ人によってあっさり滅ぼされたという経緯もある。

ところが、実際にはその逆で、ヨーロッパの都市に大きな建設物が無かったころに、既にインカやアステカ、マヤには大きな神殿が建設されていたという。

そして、インカ帝国に限っていえば、初代の王であるマンコ・カパックがネックとなっている可能性は高い。王マンコの業績は歴史学者からは評価されているが、育ち盛りの中学生が読む教科書に「マンコ・カパック」とか「王マンコ」などという記述をするのには問題があると、教科書編集委員は考えたに違いない。

つボイノリオ氏は、前述のインタビューの中で、こうしたインパクトの強い人名・地名が教育の中に現れないことにも触れている。バリ地方のキンタマーニという村、オランダのスケベニンゲンというリゾート地、南太平洋のエロマンガ島などである。

これらは、おそらく一度聞いたらぜったいに忘れない地名だ。エロマンガ島には「イロマンゴ島」という呼び方もあるようだが、「エロマンガ島」の方が覚えやすい。

しかも、エロマンガ島には、19世紀半ばから広範にかけて、フランスやイギリスから宣教しが派遣されるも、原住民に殺され、報復として島を軍が占領したという歴史もある。宣教師来島以後、オーストラリア開拓のための奴隷狩りに訪れた商人が原住民に殺され食べられる(原住民には食人の風習があったようである)などの事件が起き、島の統制を取るために軍が島に上陸したが、原住民への報復を正当化するだけの役割しか果たさず、効力を持つ行政機関が設置されたのは20世紀に入ってからだそうだ。

こうした知識は、歴史や地理にぜんぜん興味を示さない子供に、歴史や地理に興味を持つきっかけを与えるのではないかと考えられる。実際、こうして筆者はエロマンガ島の歴史について学び、そこからイギリスやフランスの宣教師派遣について学びたいと思うように至ったのである。

ちょっとしたきっかけで、こうしていろいろなことに興味を持てるはずの子供たちが、大人の勝手な言い分でそうした機械を奪われていることを、私は悲しく思う。一応教員免許を持っている身として(数学の免許だけれども)。

そのようなことで、読者の皆様には、つボイノリオ氏のユーモアを通して歴史や文化に興味を持っていただきたいなあと思う次第で・・・。

私も大好きですよ、王マンコ。尊敬すべき王である。指でつつかれても、敵になめられても、激しく、ときには後ろから攻められても、矢で貫かれて少し血が出ても、兄弟姉妹との結婚が禁じられている中、王自ら妹と結婚しても、私はマンコ・カパックを尊敬する。

■(参考)

陰謀

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きっと、陰謀論者は今頃こう言っているであろう。サブプライムローン問題に端を発し、アメリカの証券会社破綻、それをきっかけとした世界同時株安など、金融危機が世界経済を襲っている。

たぶん、陰謀論者は、こうした機器は、陰で世界を牛耳っているユダヤによって引き起こされたことであると主張するだろう。というか、ネガティブな出来事は全て陰謀なのである、彼らにとっては。

しかも、たいていユダヤとかイルミナティが潜んでいるらしい。最近も、アメリカのブッシュ大統領はイルミナティの秘密結社である、という主張を読んだ。その人の主張によれば、イルミナティの秘密結社であるブッシュは、いずれ起こるであろうニューヨーク市場の大暴落に何ら手を打たず、それどころか政府の金を着服した罪で逮捕されるというのである。ちなみに2006年に出版された本であった。もともと「宇宙人がそろそろ地球にやってきます」という本だったのだが・・・。

陰謀論者の論理では、我々一般人がそうした陰謀組織を否定するのは、陰謀論者がそのように人の意識を操作しているからなのだ。そして、世界で起こっている大事件のほとんどが、そうした陰謀組織を背景にしているという。

今回の金融危機も、その陰謀の一環なんだろう。何故そんなことを陰謀組織がするかといえば、もちろん、世界支配が目的である。

先ほど挙げた「宇宙人ともうすぐ会えます」みたいな本によれば、世界は金融経済をさっさとやめ、金(gold)を資本とした貨幣制度にすぐさま移行すべきだと書かれていた。今の世界の経済システムは、銀河連邦では否定されているらしいのだ。

だいたい、今の金融経済そのものがユダヤやイルミナティによって作られたもので、我々はそれに速く気づく必要があるっていうんだから困ってしまう。そう言われても・・・。

で、何が言いたいかというと、俺はそんなことが言いたいんじゃない。

要するに、「もうすぐ宇宙人に会えます」というタイトルでありながら、「ブッシュ大統領はイルミナティでもうすぐ逮捕されます。ブッシュが逮捕されたことが明るみにでたらニューヨーク市場は暴落し、世界経済は一気に破綻します。そしてゴールドを主体とした経済システムへ移行しなければなりません。また、地球そのものが機器に貧している今、私たちは次元を上げていかなければなりません。」という主張をする本を書いている占い師の著者は、本当に的中率90%なのか?ということなのだ。

ただ、「今こそ物欲から離れ、人間の心にとって本当に大切なことは何か、よく考えてみなければいけないのです」という主張はそのとおりだと思う。いやぁ、耳が痛い・・・。物欲は我慢せんといかんとです![禁欲] is very very important!そうお~もいませんか~?

全盲には、一人で歩くのが比較的できる人と、あまりできない人がいる。

もう少し細分化すると、一人で歩く事に抵抗が無い人、誰かと歩く方が好きだが一人でも歩ける人、道を覚えれば一人でも歩ける人、知っている道以外一人では歩きたくない人など、様々である。

比較的歩ける人には、人に道を聞いて目的地へたどり着くことがそんなに苦労なくできる人が多い。逆に一人で歩くのが苦手な人には、なかなかそういうことができる人はいない。

そのような違いは、おそらく頭の中に地図を描き、それを利用して歩いているかどうかではないかと考えられる。歩ける人は自分の辿った道筋や教えてもらった道順を描き、それを頼りに補講することで迷わないのではないだろうか。逆にイメージ化ができないと、一人で歩くのは難しいことになる。

友人とこのことを議論したことがあるのだが、大きな焦点は、地図を描ける人と描けない人の違いである。

その友人の分析によれば、まず、自力で歩行できるだけの視覚経験のある人は比較的歩ける部類に入る人が多いようだ。これを俺たちの周りの人々に当てはめてみると、だいたい当てはまる。逆に先天性の全盲には苦手な人が多いのではないかという。かく言うその友人も先天性で一人で歩くのが苦手だそうだ。言うまでもないが、見えていたのなら図形概念が存在しているので、脳内でイメージ化するのも可能だという主張である。

次に、スポーツをやっていた人も一人で歩ける人が多いという。まぁ理屈は分からないでもない。スポーツにおいては自分の位置は非常に重要であるから、動いた距離や方向から自分の位置を推測し、それを元に行動する能力が養われるというのである。

そしてこれは俺の推測であるが、おそらく数学ができる人も比較的歩けるのではないか。これは数学を学ぶことにより図形的な概念が形成されるので、特に作図などをきちんとやっていた人は脳内にイメージを作ることもできるのではないだろうか。

ここで、歩行訓練にも注目してみたい。盲人はたいてい小学校のうちに一人で歩くための訓練を行う。その訓練を歩行訓練といい、大きくは2つの訓練に大別される。

1つは歩行スタイルの獲得である。歩行するときに白杖を使うこと、白杖をどのようにして使用するか、電車にはどうやって乗るかなど、歩行する上で基本となる事項の訓練である。

もう1つはルート歩行などとも呼ばれているようだが、目的地を指定し、ある地点から目的地へたどり着くために必要な様々な技法を習得するための訓練である。

考えたいのは後者の訓練である。ルート歩行の訓練では、主に次のような訓練が行われる。

  • 簡単な地図(触図)でルートを確認し、スタート地点から目的地までの道順を暗唱する。
  • スタート地点から目的地までの道順を口頭で教わり、地図に書き起こす。
  • 地図や口頭での説明を元に、実際に歩行する。
  • 補講したルートを地図に書き起こしたり口頭で説明したりする。

これらは最も基本的な訓練である。初めは建物の中から始め、次第に外に広がっていく。このとき、手がかりを使って歩行ルートの確認や危険性把握などを行う訓練も同時に行われる。

発展的な訓練として、同じスタート地点、同じ目的地へ行くために、複数のルートを使って補講する訓練、スタート地点から目的地までのルートの中で、ランダムな地点へ連れて良かれ、そこから目的地へ行く訓練などもある。さらにこれを発展させ、スタート地点から目的地までのルートとは全く別の地点に連れて良かれ、そこから目的地へ行く訓練などもある。

俺はこういう補講訓練を受けてきた。おかげでというか、一人で歩くのは全く問題ない。おそらくほとんどの全盲はこういう訓練を受けただろう。にも関わらず、人によって歩けるようになる人とそうでない人がいるのだ。

訓練の仕方にもよるかもしれないし、普通の人だって方向音痴の人がいるのだから全盲は余計多いという主張もある。実際のところ、小学校や中学校などで、6,7年歩行訓練を受けるわけだが、できない人はできないようである。

そうしたことは誰かが論文で発表してないか気になるわけだが、どういうキーワードで検索したらいいんだろう。悩ましい。

では、もう少しこれを発展させてみる。一人で歩くのが苦手な人は、今から訓練したら解消されるんだろうか。

大人になって今更歩行訓練を受けるなんて、ほとんどの人がいやがると思う。けれども、俺としては、どちらかといえば一人で歩けず人に頼る事の多い人生を送るなら、ちょっとの時間を割いて自分で歩けるように努力する方が有意義だと思うのだが、そこで問題なのは効果があるのかどうかということなのだ。

点字を大人になってから勉強しても習得が難しい。これは感覚器官ができあがってしまっている大人だから問題があるようなのだ。何にしても、子供のころからやっていることと、大人になってから始めたことでは、伸び率も違うし、到達地点も違う。明らかに子供からやっていた方が身につくのだ(大人には時間がないという主張はあるにはあるけれども)。そうであるならば、補講能力についても、子供のころさんざんやって身につかなかった人が、大人になって訓練を受けたところで無駄なんだろうか。

これらの問題については、これからも考えていきたいと思う。

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